ユダヤ人の追放と帰還、そして「イングランド銀行」の設立 |
ヨーロッパにおいては、中世から近代にかけて、各国・各地域からユダヤ人が追放されている。
しかしながらその後、彼らはヨーロッパに帰還している。
そして帰還したユダヤ人は、1694年に「イングランド銀行」を設立している。
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■ 目 次 |
●キリスト教社会の反ユダヤ主義
・ユダヤ人のヨーロッパ各国からの追放
・ユダヤ人は何故、各国から追放されたのか
・ユダヤ教の「タルムード」
●ユダヤ人の帰還
●「イングランド銀行」の設立
・脚注
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■ キリスト教社会の反ユダヤ主義 |

● イエス・キリストと初期キリスト教
イエス・キリストはアブラハムの子孫であるユダヤ人として生まれており、キリスト教は、もともとユダヤ教の一派として始まった。
キリスト教は当初、ユダヤ教のナザレ派と呼ばれていた。
また聖書66巻(旧約39巻、新約27巻)は2巻を除き、全てユダヤ人によって書かれた。
十二弟子や初代協会の信者は、ほとんどがユダヤ人だった。
【以上こちらなどから。右画像はイエス・キリスト。wikipediaから】
● イエス・キリストが非難したパリサイ人
イエス・キリストは新約聖書の中でパリサイ人を「偽善な律法学者」と呼んで激しく非難しているが、このパリサイ人とは、ユダヤ教徒内のファリサイ派の人々を指す。
ファリサイ派は、エルサレム神殿破壊(西暦70年)後のユダヤ教の主流派。
現代ではファリサイ派と言う名称は使われておらず「ユダヤ教正当派」又は「ラビ的ユダヤ教」と呼ばれている。
【wikipediaなどから】
つまり、ユダヤ人(ユダヤ教徒)であったイエス・キリストは、同じユダヤ人であるパリサイ人を非難したと言ううこと。
よって、イエス・キリストの説教は当時、ユダヤ教徒内の “宗教改革” のように捉えられたようだ。
● キリスト教徒による反ユダヤ主義
ヨーロッパにおいては、キリスト教徒(カトリック)のリーダーたちは、10世紀頃までに「すべてのユダヤ人はキリスト処刑の責任を負い、ローマ人による神殿の破壊(西暦70年のヘロデ神殿の破壊)とユダヤ人が分散している(ディアスポラ)のは、過去の宗教上の罪と、ユダヤ人が自分たちの信仰を放棄してキリスト教信仰を受け入れなかったことに対する罰である」という教義を発展させ、固定化させた。
上を箇条書きにすると、
①すべてのユダヤ人はキリスト処刑の責任を負う。
②ローマ人によるヘロデ神殿の破壊。
③ユダヤ人のディアスポラ。
②、③は、過去の宗教上の罪と、ユダヤ人が自分たちの信仰を放棄してキリスト教信仰を受け入れなかったことに対する罰である
【左上画像はバチカンのサン・ピエトロ寺院。こちらから。ヘロデ神殿については下記参照】
要は、キリスト教徒の「反ユダヤ主義」は、カトリック教会によって理論化され、強化された。
「お互いに同じ神様(=旧約聖書のヤハウェ)を信仰しているんだから、仲良くしましょう」と言うことにならなかった。
ユダヤ教徒の主張:パリサイ人を非難したイエスなど架空の人物。でっち上げだ。
キリスト教徒の主張:上の①~③。西欧人のほとんどはキリスト教に改修したではないか。何故改宗しないのか?キリスト教に改宗しないことは罪だ。
● 反ユダヤ主義と反異教徒主義
(以下『金融のしくみは全部ロスチャイルドが作った』(脚注2, p.62, 右画像)から転載)
昔のヨーロッパのキリスト教社会では、ユダヤ教徒たちは「キリストを十字架にかけて殺した罪人」としてとして迫害されていました。
ほとんどの職業に就くことが禁止され、土地を持つことも制限されたため、農業を行うこともできませんでした。
唯一許された職業が、キリスト教徒から忌み嫌われていた利子を取り扱う職業=高利貸し(質屋)や金塊の保管人、両替商(貿易決済業)などでした。
当時、ユダヤ教もキリスト教やイスラム教も、利子の徴収は原則として禁じられていたのです。利子を取ることの弊害を経験的に知っていたのでしょう。
しかし、ユダヤ教だけは例外として、異教徒から利子を取ることが許されていたのです。
何故ユダヤ教だけが例外だったかと言えば、ユダヤ教徒は異教徒を人間として認めていなかったからです。
【ユダヤ教徒の反異教徒主義とでも言うべき「選民思想」は、「タルムード」の項で後述する】
● (参考)ヘロデ神殿
・ソロモンの第1神殿
聖書の記述によると、紀元前587年迄、エルサレムの丘にユダヤのソロモン神殿があった(第1神殿)が、新バビロニアによるエルサレム攻囲戦により破壊された。
・第2神殿
第2神殿は、紀元前516年、第1神殿の場所に再建された。
・ヘロデ神殿
ヘロデ神殿は、紀元前20年頃ヘロデ大王が第2神殿の大拡張に着手し、紀元後64年頃に完成した神殿は、ヘロデ神殿と呼ばれている。
しかし、西暦70年ローマ帝国によって破壊された。
西の壁の下部は「嘆きの壁」として現存している。
下画像はエルサレム第2神殿の模型。こちらから。

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■ ユダヤ人のヨーロッパ各国からの追放 |
ユダヤ人は次のとおりもヨーロッパ各国から追放されている。(※1, p.33)
地域によっては、何度も追放されている。
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国・地域 |
西暦 |
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マインツ(現在はドイツ連邦共和国の一部) |
1012 |
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参考 |
1096(第1回十字軍) |
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フランス |
1182 |
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オーバーバイエルン(現在はドイツ連邦共和国の一部) |
1276 |
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イギリス |
1290 |
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フランス |
1306 |
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フランス |
1322 |
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参考 |
1347~(ペスト流行) |
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ザクセン(現在はドイツ連邦共和国の一部) |
1349 |
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ハンガリー |
1360 |
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ベルギー |
1370 |
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スロヴァキア |
1380 |
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フランス |
1394 |
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オーストリア |
1420(ルネサンス) |
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リヨン(現在はフランス南東部の都市) |
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ケルン(現在はドイツ連邦共和国の一部) |
1424 |
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マインツ |
1438 |
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アウグスブルク(現在はドイツ連邦共和国の一部) |
1438 |
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オーバーバイエルン |
1442 |
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オランダ |
1444 |
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ブランデンブルグ(現在はドイツ連邦共和国の一部) |
1446 |
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参考 |
1453(東ローマ帝国滅亡) |
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マインツ |
1462 |
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マインツ |
1483 |
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ワルシャワ(現在はポーランドの首都) |
1483 |
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スペイン |
1492(アメリカ大陸発見、グラナダ陥落) |
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イタリア |
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リトアニア(バルト3国の最も南の国) |
1495 |
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ポルトガル |
1496 |
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ナポリ(イタリア南部の都市) |
1496 |
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ナバラ(スペイン北部の自治州) |
1489 |
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ニュルンベルク(現在はドイツ連邦共和国の一部) |
1498 |
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ブランデンブルク |
1510 |
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プロイセン(現ポーランド北部からカリーニングラード州(ロシアの飛び地)・リトアニアにかけて広がる地域) |
1510 |
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ジェノバ(イタリアの西北部にある都市) |
1515 |
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ナポリ |
1533 |
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イタリア |
1540 |
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ナポリ |
1541 |
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プラハ(チェコ共和国の首都) |
1541 |
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ジェノヴァ |
1550 |
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バイエルン |
1551 |
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プラハ |
1557 |
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ローマ教皇領 |
1569 |
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ハンガリー |
1582 |
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ハンブルグ(ドイツ北部の都市) |
1649 |
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ウィーン(オーストリアの首都) |
1669 |
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スロヴァキア |
1744 |
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モラヴィア(チェコ共和国東部の地域) |
1744 |
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ボヘミア(チェコ共和国中西部の地域) |
1744 |
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モスクワ |
1891 |
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■ ユダヤ人は何故、各国から追放されたのか |

● 反ユダヤに係る通常の見解
『ユダヤ・ロスチャイルド世界冷酷支配年表』(脚注1, ※1, p.35)から転載する。
・ユダヤ人ベルナール・ラザールの見解
ユダヤ人ベルナール・ラザールは、1894年に出版された『反ユダヤ主義の歴史と原因』で、ユダヤ人の追放について次のように述べている。
「この反感、嫌悪感が、ある時期のある国のユダヤ人に向けられただけのものであれば、そのとき怒りを買った理由を解明するのは簡単だ。
しかし、この民族は、移住する先々であらゆる人々の嫌悪の対象となったのである。
つまり、ユダヤ人の敵はあらゆる人種に及び、互いに遠く離れた国に暮らし、全く異なる法のもと、相反する主義により統治され、異なる道徳、異なる習慣を持ち、異なる判断基準に基づいて行動しているのだ。
そのことからすれば、反ユダヤ主義の主な原因は常にユダヤ人自身にあるに違いなく、ユダヤ人に敵対する側にあるのではないということになる」
・ジェシー・H・ホームズ教授の見解
ジェシー・H・ホームズ教授も、アメリカ系ユダヤ人新聞「アメリカン・ヘブライ」で同様の考えを示している。
「ユダヤ人に対する反感がユダヤ人と非ユダヤ人の交わる世界中のあらゆる場所に見られるのは、偶然ではありえないだろう。
それらの状況の共通項がユダヤ人であることを考えると、原因はむしろユダヤ人にあるのであって、敵対心を感じる様々な集団の側にあるのではなかろう」
【左画像はイエスラエルの「嘆きの壁」で祈るユダヤ人】
● エレナ・ダナーンさん等の見解
ユダヤ教の聖書(キリスト教徒の「旧約聖書」)の神はヤハウェだが、この神はアヌンナキのエンリルが演じていた。【リンク】
エンリルは地球人類支配のために、互いに分裂させ、争わせ、憎み合わせるように宗教(ユダヤ教及びイスラム教)を創造した。【リンク】
一方、イエス・キリストはそのようなユダヤ教を非難したが、(エンリルに操作された)後のキリスト教会は、イエスの教えを自分たちに通合の良いように利用し、キリスト教を一神教とし、他の一神教であるユダヤ教やイスラム教と対立させた。
要は、一神教である「ユダヤ教、キリスト教、イスラム教」は、背後にエンリルが居り、互いを対立させ、争わせ、憎み合わせるために創造された。
● ユダヤ教、キリスト教、イスラム教
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区 分 |
成立年代 |
聖書・重要文書 |
信仰対象 |
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ユダヤ教 |
前13世紀頃 |
聖書(旧約聖書)
タルムード |
ヤハウェ(唯一神) |
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キリスト教 |
後1世紀頃 |
旧約聖書
新約聖書 |
次の三位一体(=一神教)
・父なる神(ヤハウェ)
・その子(イエス)
・聖霊 |
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イスラム教 |
後7世紀頃 |
コーラン
旧・新約聖書 |
アッラー(唯一神) |
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■ ユダヤ教の「タルムード」 |

● ユダヤ教の聖典
ユダヤ人がヨーロッパの各国から追放された原因の一つが、独善的、狂信的な「タルムード」の思想ではないかと思われる。
まず、ユダヤ教の聖典を次に掲げる。
・旧約聖書
「旧約聖書」と言う呼び方は、キリスト教徒によるもの。
キリスト教徒が言う「旧約聖書」が、ユダヤ教徒の「聖書」
【右画像はこちらから。画像をクリックすると別画面で拡大表示】
旧約聖書の中でも特に重要視されるのが「トーラー」(モーセ5書)と呼ばれる次の5書。
「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記(ミンスウキ)」「申命記(シンメイキ)」
・ゾーハル
「トーラー」の註解書であり、ユダヤ教神秘思想(カバラ)において中心となっている書物。
・ミシュナ
モーゼが神から授けられた法で、成文化されずに口伝で伝えられたもの。
・ゲマナ
「ミシュナ」をラビが解釈したもの。
・タルムード
「ゲマナ」から作成された日常生活の規範と、時代時代に対応した生きざまを記したもの。6部構成、63編からなる文書群。「ユダヤの民法」とも呼ばれている。
6世紀頃には現在の形になったと考えられている。
左画像はバビロニア・タルムード全巻。wikipediaより。
● タルムードの独善的選民思想
以下、『金融の仕組みは全部ロスチャイルドが作った』(脚注2)p.79から転載する。
タルムードの膨大な文書群の中には、民族的排他性と独善的線民思想が含まれているところがあります。その問題個所を例としてあげてみましょう。
・ユダヤ王は真の世界の法王、世界にまたがる教会の総大司教となる。
・あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。
・人間の獣に優れる如く、ユダヤ人は他の諸民族に優れるものなり。
・神はユダヤ人にすべての方法を用い、詐欺、強力(ゴウリキ、暴力や脅迫)、高利貸し、窃盗によってキリスト教徒の財産を奪取することを命ずる。
・汝らは人類であるが、世界の他の国民は人類にあらずして獣類である。
・「汝殺すなかれ」との掟は「イスラエル人を殺すなかれ」との意なり。ゴイ(非ユダヤ人)、異邦人はイスラエル人にあらず。
・ゴイがゴイもしくはユダヤ人を殺した場合は責めを負わねばならぬが、ユダヤ人がゴイを殺すも責めは負わず。
・ゴイに金を貸す時は必ず高利を以てすべし。
・他民族の有する所有物はすべてユダヤ民族に属すべきものである。ゆえになんらかの遠慮なくこれをユダヤ民族の手に収むること差し支えなし。
・ゴイに我らの信教を教える者は、ユダヤ人を殺すに等しい。もしゴイが我らの教説を知ったならば、彼らは公然と我らを殺すだろう。
・ゴイが我らの書物には何かゴイを害することが書いてあるのではないかと聞いたら、偽りの誓いを立てなければならない。そして、そのようなことは誓って書いていないと言わなければならない。
・瀆神者(トクシンジャ、非ユダヤ人)の血を流す者は、神に生贄を捧ぐるに等しきなり。
(★阿修羅♪資料室 http://www.asyura2.com/data000.htm より)
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■ ユダヤ人の帰還 |
各国(各地域)から追放されたユダヤ人がその地域に帰還する過程を、イギリスを例として見てみる。
・ユダヤ人の追放
1290年、エドワード1世は「ユダヤ人追放令」を発布し、ユダヤ人をイギリスから永久に追放することを決定した。
また1290年11月1日以降に国内に留まるユダヤ人は処刑すると定めた。
【右画像はエドワード1世。wikipediaから】
・ユダヤ人の帰還
1649年(1290年の359年後)、オリバー・クロムウェルは、イギリス議会から支援を受けて、国王チャールズ1世を反逆罪のかどで処刑した。
その後、クロムウェルはエドワード1世が制定した「ユダヤ人追放令」を事実上撤回し、イギリスへのユダヤ人の受け入れを再開した。

・(参考)オリバー・クロムウェル
オリバー・クロムウェル(Oliver Cromwell)は、イングランドの政治家、軍人、イングランド共和国初代護国卿。左画像。
清教徒革命では鉄騎隊を指揮して活躍。
ネイズビーの戦いで国王チャールズ1世をスコットランドに追い、議会派を勝利に導いた。
護国卿時代には独裁体制をしいた。
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■ 「イングランド銀行」の設立 |
(以下転載)(※1, p.36)
クロムウェルがユダヤ人をイギリスに入国させるようになってから33年後、オランダの王子(ウィリアム3世)が、ユダヤ金融の中心地アムステルダムから大勢のユダヤ人を引き連れてやって来た。
【右画像はウイリアム3世。こちらから】
義理の父【ジェームズ2世、妻メアリの父】をイギリスから追い出した王子は、イギリスの王位に就くことをありがたく承諾した。
【王子は1689年、議会の示した「権利の宣言」を受け入れ、イギリス国王ウィリアム3世となり「権利の章典」として公布した(名誉革命)】
当然の結果として、6年後、王室に金を貸す目的で、「イングランド銀行」が設立され(1694年)、国債が発行された。
ユダヤ人がやって来るまでのイギリスは、借金などしたことはなかったにも関わらずである。
なお「イングランド銀行」は、イギリス政府によって管理されている印象を与える名だが、その実態はユダヤ人によって設立された民間銀行である。
しかし、第2次世界大戦後の1946年、労働党アトリー内閣の一連の重要産業国有化政策の一環としてイングランド銀行は国有化されたが、実際的な支配権はアシュケナージユダヤであるロスチャイルドが有していた。
左上画像は、1816年当時のイングランド銀行と、王立証券取引所。wikipediaから。
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(脚注1)(※1)『ユダヤ・ロスチャイルド世界冷酷支配年表』アンドリュー・ヒッチコック著、太田龍監訳、成甲書房
(脚注2)『金融の仕組みは全部ロスチャイルドが作った』安部芳裕著、徳間書店
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